第129回目「地図で読み解く 合戦の日本史〜3」(歴史の謎研究堺編)

<ポイント>

  • タイミングを逃さない
  • 自分を冷静に見詰める習慣
  • 運を味方につける

<対象となる人>

  • 日本史が好きな人
  • 戦国時代を生き抜く知恵を学びたい人
  • 時流を的確に掴みたい人

<Principle(面白いこと3点)>

  • 占いより冷静な分析
  • 素早い決断が運命を呼ぶ
  • 自分を戒める術を持つ

So What?/True? (Answerは皆さんも考え下さい)>

  • 勢いに乗っている時ほど、ちょっとしたことを見落とし落とし穴に入ってしまう可能性はある。現在の勝ち組みと負け組みの差も、同じようなところに勝敗を分ける要因があるのだろうか。特に、現代の方が時間の流れが速い。従って、より素早い決断と分析力、将来への読みが大きな差になるのであろうか。

この本に興味を持てば→決定版 地図で読み解く合戦の日本史


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<抜粋>(かっこ内は私の意見)
青(客観重要、まあ大事)赤(客観最重要、すごく大事)緑(主観大切、おもしろい)


3.戦国時代
(1)厳島の戦い:1555年 中国の覇権をかけた戦いで、毛利元就がとったある秘策

  • 厳島合戦が行なわれた時、毛利元就は59歳
  • 安芸国を統一したときはすでに54歳になっていた
  • 二万の大軍を擁する陶軍に対し、毛利軍はわずか四千足らず→得意の謀略戦を仕掛ける
  • 狭い島に陶軍をおびき寄せることで大軍の利を失わせ、奇襲をかけやすくする狙い
  • 陶軍の本営では翌日に総攻撃をかけることで軍議はまとまりかける→大将の晴賢が吉兆を信じ待ったをかけた→3日後に延期→その間に毛利軍の応援がきた⇒最初に予定した日に総攻撃をかけていれば勝敗はどちらにころんだか分からない
  • この勝利によって毛利元就の名は全国にとどろいた

(2)長良川の戦い:1556年 生き残りをかけた父と子、その戦いの結末
(3)川中島の戦い:1553年〜1564年 甲斐の虎と越後の竜、両雄が塗り替えた戦国地図

  • 戦国を代表する二大巨頭が互いに牽制した消耗戦を繰り返した⇒漁夫の利よりしく織田信長という新時代の旗手が台頭していく

(4)姉川の戦い:1570年 川面が血で染まる大激戦を制した信長・家康連合軍
(5)石山合戦:1570年〜1580年 全国の一向宗徒の決起に、信長が選んだ方法とは
(6)三方ケ原の戦い:1572年 戦国列強の武田軍団に、若き家康はどう挑んだか

  • 武田軍の通過をこまねいて見過ごし、織田信長の領内にでも侵入されたら、同盟者の信長に対して言い訳ができない→信玄も恐ろしいが、信長はもっと恐ろしい
  • さすがの家康も自暴自棄になり、敵中に突入して斬り死にしようとした→近侍の者に止められた
  • 三方ケ原の戦いの直後、家康は絵師狩野探幽に命じて自分の姿を描かせている→敗軍の将となり、こけた頬を左手で支え、落ち窪んだ両眼は異様に光り、今まさに苦虫を噛み潰している表情⇒後年、家康はことあるごとにこの絵を眺めては、己の戒めとした

(7)長篠の戦い:1575年 新兵器「鉄砲」が持っていた本当の意味
(8)本能寺の変:1582年 信長の野望を打ち砕いた明智光秀、謀叛の真相
(9)高松城攻防戦:1582年 鬼謀神のごとし・・・高松城攻めで見せた秀吉の真骨頂

  • 秀吉のもとにやって来たのは味方の援軍ではなく、主君信長の横死を知らせる使者であった→それも、もともと明智光秀が毛利方に共闘態勢を呼びかけるために放った使者→夜間で秀吉の陣を毛利の陣を間違えて入ってきた・・・信長の死の翌日、6月3日夜半のこと
  • 秀吉は一刻も早く毛利方と和議を結ぶ必要があった
  • もしも、信長の死を知らせる使者が秀吉方に迷い込まず、毛利方に到着していたら、戦局はどう変化していたか分からない⇒秀吉が、比類なき強運の星の下に生まれた男だと言われる所以

(10)山崎の戦い:1582年 「中国大返し」の裏側と天王山の決戦

  • 光秀は見方になる武将の抱き込み構成に積極に動いていた⇒あまりにも早く秀吉が戻ってきたので、中途半端で終わってしまった
  • 信長襲撃という大事件を電光の素早さで成功させた光秀であったが、突発的に行ったクーデターであっただけに根回しが充分でなく、周囲の理解や賛同を得ることはかなわなかった

(11)賤ケ岳の戦い:1583年 北国の雄・柴田勝家を破った豊臣秀吉の智謀とは
(12)小牧・長久手の戦い:1584年 秀吉と家康が激突した最初で最後の合戦
(13)小田原城攻防戦:1590年 秀吉が満天下に見せつけた、空前絶後の攻城戦

  • 秀吉来るの報に北条方は連日軍議を開き、対抗策を練った。しかし、難攻不落をうたわれた小田原城に篭もって戦うべきか、それとも打って出て箱根山で迎撃するかで意見が二分し、結論はでなかった。 ⇒ 長引くだけで意見がまとまらない会議を「小田原評定」と言うようになった

(14)文禄の役慶長の役:1582年/1587年 秀吉が朝鮮半島に攻め込んだ本当の理由

  • 共通の敵を作ることで国内統一を図る狙いもあった

(15)関ヶ原の戦い:1600年 “天下分け目の合戦”の知られざる経緯

  • 関ヶ原の名はもともとこの近くにあった不破関にちなむ→古代、不破関は軍事・交通の要衝⇒この関所より西がすなわち「関西」と呼ばれるようになった
  • 天下分け目の決戦も終わってみれば、東軍の圧勝→西軍の将でどうにか国元に逃げ帰ることができたのは薩摩の島津義弘のみ



<今日の「これ愉快」>(こ:根拠、れ:例、ゆ:ユニーク点、か:仮説、い:意見)

  • こ(根拠):タイミングを逸してしまったり、油断すると、敵に逆転するチャンスを与えることにもなる。油断大敵。
  • れ(例):相手に形成を立て直す時間を与えてしまうと、一気に形成逆転ということも有りうる。
  • ゆ(ユニーク点):家康は自分が味わった悔しさ、惨めさを忘れることなく、己の戒めとし続けた。浮かれている時に、冷静になる自分を作る時間を持つことは大事。
  • か(仮説):調子に乗っていると、ついつい自分を見失ってしまい、自分の力を過信してしまうことがある。いかに冷静にあることが難しいか。逆に、常に冷静に物事を判断できれば、何事においても高い視点で考えることができる。
  • い(意見):自分と取り戻す術を身につけておきたい。

<気付き>
占いをそのまま信じてしまうと、タイミングを逃し、結果的には取り返しのつかないことをしてしまうこともあるのではないか。占いなんかを信じないで、周りの情勢を見る判断力、分析力をもち、自分で責任を持って判断することで自分の人生は開かれていく。

<今日の一言>
「タイミングを逃さないためにも、冷静に周りを見て、自分の判断で責任を持って行動しよう。」



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